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いつもとちがう奈良のまちめぐり

2018.05.26 | 授業 | by Staff

前日の強い日差しから少し開放された5月26日、授業「スペシャリストの奈良案内2 ~奈良の怨霊伝説を訪ね歩く~」は、春日大社駐車場から怨霊伝説の地巡りにいざ出発。
友松先生の流暢な語りが始まります。

いつもとちがう奈良のまちめぐり_1

まずは、不空院。
怨霊となった井上内親王(いのえないしんのう)の登場です。
聖武天皇の娘で伊勢斎王、のちに光仁天皇の皇后となった内親王。
しかし!藤原百川(ふじわらのももかわ)の陰謀とされる光仁天皇呪詛事件で内親王もその皇子もともに流罪、幽閉となり、その後ふたりは同日に亡くなった!
そして・・・この後から、自然災害を含め様々なことが起きた。
これは内親王の怨霊だ!ということとなり、井上内親王の邸宅があったとされるここに荒魂を鎮めるために塚ができたのでした。
なるほど、怨霊伝説の地ですね。

いつもとちがう奈良のまちめぐり_2

続いては、不思議なお話。
比売塚のある比売神社。
主人公は、十市皇女(とおちのひめみこ)。
父は天武天皇、夫は大友皇子。
672年の壬申の乱(そういえば学校で習ったなぁ)で父と夫が戦い、父の勝利により夫が自害するという悲劇的な運命に翻弄された皇女。
その数年後、飛鳥の宮中で突然その生涯を閉じたのでした。
それから時代は随分進んだ1979年(昭和54年)、この神社の創祀者・寺島さんが不思議体験。
伊勢神宮に向かう電車内で寺島さんの奥さんが目にしたのは、首に白い蛇が巻いている夫の姿!
そして、「比売塚」から「祀ってほしい」という声も耳に!
さらに、比売塚には十市皇女が埋葬されているという言い伝えも聞き、これは、皇女を祀らなければと思い立ち、当時雑草の生茂っていた塚に神社を建てたという不思議な話でした。

いつもとちがう奈良のまちめぐり_3

そして、「呪い返しの寺」とも呼ばれる新薬師寺では、国宝の「薬師如来坐像」の光背に彫られているギリシャの植物、アカンサスの実物を拝見。
境内で育てられていることに驚きました!

いつもとちがう奈良のまちめぐり_4

そのままお隣へ移動して、新薬師寺の鎮守社である鏡神社へ。
ここには、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が祀られています。
政治の乱れを弾劾するため、僧・玄昉などを朝廷から追放するよう反乱を起こした広嗣。
その広嗣を朝廷が斬殺したことが原因で怨霊となり、天変地異に加え、天皇の体調不全、僧・玄昉の死へと続きます。
そんな荒ぶる広嗣の魂が眠る場所なのですね。

いつもとちがう奈良のまちめぐり_5

前述の玄昉の頭を埋めたとされる頭塔へと歩きます。
ん?頭だけとは・・・。
その謎を、先生が丁寧に紐解いてくれます。
玄昉は九州のお寺へ供養に出かけていたところ、突然、雲の中へと連れ去られ(広嗣の怨霊か?!)、そのまま消えたといいます。
そして、奈良の地へ遺体が飛散し、頭は頭塔のある高畑町に、腕は肘塚(かいのつか)町、眉と目は大豆山(まめやま)町に落ちたとされ、塚を作ったという説が生まれたそうです。
頭塔を1周しましたが、裏側を歩いた時ちょっと背中がぞくっとしたのは私だけでしょうか?!

いつもとちがう奈良のまちめぐり_6

引き続き歩いて崇道天皇社へ。
崇道天皇は、早良親王の通称で、早良親王は光仁天皇の子で、他戸親王(おさべしんのう)とは母違いの兄弟です。
怨霊となったのは、まさにこの早良親王。
長岡京造営は、藤原種継らが中心となっており、目的のひとつに南都寺院の影響力排除があったらしいです。
遷都後、種継暗殺事件が起こり、南都寺院と関わりのあった早良親王が遷都阻止を目的に事件を企てたとして幽閉され、亡くなったといいます。
それから、皇族の病死や疫病の流行、洪水が相次ぎ、早良親王の祟りだとされたようです。

いつもとちがう奈良のまちめぐり_9

こじんまりと佇む井上神社から御霊神社へ。
この神社には、8人もの方々の霊が祀られています。

いつもとちがう奈良のまちめぐり_7

そして、本日最後のスポット、元興寺塔跡へ。
ここは不思議なお話があるところです。
奈良時代、大寺院であった元興寺の境内に石灯篭があったそうです。
ある時、新しい灯籠を奉納し、京都へと持ち帰ったところ、灯籠が南都の方を向いて毎晩「帰りたい、帰りたい」と啼くので、怖くなって元興寺へ返したというお話でした。
ちなみに私たちが目にしたものは、大地震で倒壊した後、平成に修復されたものだということでした。

いつもとちがう奈良のまちめぐり_8

先生のわかりやすいお話とともに、すっかり忘れていた歴史に触れた時間でした。

(お菓子な世界)

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