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●レポーター:生駒市在住 ikomaniaさん
8月27日土曜日。
少しどんよりとした空模様のなか、若草公民館で行われた奈良ひとまち大学の「リヤカーで街を行く豆腐職人 ~きたまちで豆腐を作る、という仕事~」の授業に参加しました。
開始前、教室に入ると本日の講師・薮田さんが。
「あ~もう帰りたくなってきた。」と非常に緊張しておられる様子。
失礼ながら、豆腐職人さんというイメージと風貌も相まって、どんなことにも妥協を許さないとても怖い方なのかな?と思っていたのですが、とても人間味のある方だなとちょっとホッとしました。
10時になり、講義がはじまりました。
応募した人のほとんどが女性で、男性は私を含めて3人だけ。
女性の食や豆腐への関心の高さが伺えました。
講義の序盤は薮田さんが豆腐職人になるまでの経緯についてのお話。
現在の店舗のある場所の近くで生まれ育った薮田さん。
大学を中退後、3年間ほどアメリカ・ロサンゼルスへ。
帰国後、団体職員として10年ほど勤めていたのだそう。
団体職員として働いていた頃に、人間関係や組織の一部として働く働き方など<大きい組織ならではの>働き方に疑問を感じ、「最初から最後まで自分で完結できることがしたい」と退職を決意。
当時のお勤め先にあった専門的な新聞などを目にし、当初は提灯屋さんになろうと思い、吉野の提灯屋に弟子入りを志願したものの、「若いやつがやるもんちゃう」と言われ断念。
当時豆腐屋さんが数多く廃業しているなか、「競争相手が減っているから」という理由で豆腐屋さんへ転身することを決心。
斑鳩町にある豆腐屋さんで3年間修行したのだそうです。
「独立するなら、土地を買ったほうがええ」と言われ、3年間働かないとローンが組めないことから3年間働いたものの頻繁にイベントに出店するため、その度に寝ずにたくさんの豆腐を作ったこと。
奥さまに相談せず豆腐屋さんに転身した話など、朴訥ながらユーモアあふれるお話もしていただきました。
3年間の修行後、およそ3年前に、「たまたまええ土地があの場所にあったから(薮田さん談)」ということで、現在の場所に「きたまち豆腐」をオープン。
当初は物珍しさから多くのお客さんが訪れたのだとか。
そして、薮田さん、そしてきたまち豆腐を語る上で欠かすことのできない「リヤカーを引く豆腐職人」誕生の秘話も語っていただきました。
オープンの特需も落ち着いた頃。
「このままじゃ食ってかれへん」という危機感を感じた薮田さん。
午前中に豆腐を作ったら午後売りに行く伝統的な豆腐屋さんのスタイルで売ろうと考えていた折、ならまちのたい焼き屋さんが店を畳み、リヤカーを譲ってくれるとのことで、あの営業スタイルが誕生したのだそうです。
「動く広告塔」としての効果があったようで、近隣の飲食店さんなどが買ってくれるようになったのだそうです!
薮田さんとひとまち大学のスタッフさんとのインタビュー形式で1時間ほどお話いただき、ひとやすみ。
続いて、豆腐のおからを用いたお菓子を味わいながら受講者の自己紹介と薮田さんへの質問の時間です。
(お店が夏休み期間中だったこともあって、お店自慢の豆乳ドーナツではなくこちらのお菓子が「代打」で登場と相成りました。)
どんなこだわりを持って作っておられるのか、奈良への思い、自営業として働くことの楽しさなどといった質問に実直に答えておられました。
その後、若草公民館から数分ほど歩き、きたまち豆腐へ移動。
普段はまず入ることのできないであろう店の内部へ入らせていただき、薮田さんの日々のお仕事ぶりや、商品を作るうえでの苦労などをお話いただき、解散となりました。
お話を通じて感じたのは、薮田さんのシャイで飾らない人柄、「自分で最初から最後までの工程をやりたい」と目の前のことに対して一所懸命に取り組まれている姿。
「喋ることあれへん」や「何も考えていない」など本音はなかなか語らないながらも、質問に関してわからなければわからない、知らなければ知らんと嘘をつかない正直に答えられる姿勢。
不器用で口下手ながら、飾らない、誠実な人柄。
昭和気質な職人のような姿勢に、きたまち豆腐がたくさんの人から愛される理由が垣間見えたような気がしました。