詳細
●レポーター:奈良市在住 みき さん
長らく大阪や東京で暮らしてきて、故郷の奈良に帰ってきて5年。
若き日に奈良を出る前は、「奈良には何もない」という何も知らない人間でした。
奈良に帰ってきて目が開き、奈良の歴史や伝統に根付く理にかなった作法や美しさを日々新鮮に味わっています。
そんな日々の中で「慈恩会(じおんね)」という法要を知りました。
「私の誕生日に何かすごい事やってはる!」という単純すぎるきっかけから、近くの興福寺さんの慈恩会に足を運ぶようになり、「詳しくは分からないけど、厳かな法要をされているのは分かる。もっと詳しく知りたい!」そう思いながら過ごしてきたので、今回そのお話が聞けると、とても楽しみにしていました。
先生の高次喜勝師のお話は何度か拝聴したことがあり、分かりやすく楽しく聞かせてくださる方だと思っていたので、お話上手で、かつ、実際に体験をされた方から知りたかったことが聞けるとなると楽しみも倍増です。
慈恩会とは何か?というと、薬師寺や興福寺の宗派「法相宗(ほっそうしゅう)」の宗祖・慈恩大師のご命日に執り行われる「論義法会」です。
基調講演・パネルディスカッションなどがあるシンポジウムという例えが非常に分かりやすかったです。
では何のための論義なのか?というと、お釈迦さまの教えである経典などの解釈を深め合う為の大切な論義です。
例えば、話す人によっては、聴き手を意識しすぎて話を盛ってしまったり、そもそも解釈が違ったりすることがあるかも知れません。
宗派内で解釈や伝え方にばらつきが起こらないようにする、そんな役割もあったのでしょうか。
この伝統ある慈恩会の中で「竪義(りゅうぎ)」という超難問口頭試験があって、それに高次師が臨まれた体験談が今回楽しみにしていた内容でした。
竪義を修めるには前加行という準備段階が3週間もあって、1畳にも満たないスペースで終日学問に没頭し、しかも寝る時はその場で座睡するという生活を過ごされるのだそうです。
世間に戻ってきて最初のうちは、電気がまぶしく、臭いや音が気になり、何より“選択肢の多さ” が辛かった、と仰っていたのが大変印象的でした。
入ってくる情報量に惑わされて、自分の中にある思想が見えなくなることが多いので、こういう究極のスタイルでは難しいにしても、私も全集中で何かに打ち込む時間を持ちたくなりました。
もうひとつ印象に残ったのが、師となる長老から「勧請(かんじょう。神仏にお越しいただくためのお願い)によって来てくださった神仏を惚れさせるような論義をしないといけない。暗誦が全てではない。」というようなお言葉を受けられたエピソードです。
書いてあることを全部覚えても、それだけでは意味がなくて、精神を寄り添わせて初めて完成に近づくのだと、学ぶことの本質を聞かせていただいたようで、心の奥深くに刺さりました。
言いたいことを言いたいように話す人がいて、それを聞きたいように聞く人がいて、とかく会話がすれ違うのは世の常ですが、こうやってお坊さまがたは古くからご自身を切磋琢磨してこられたのかと、改めて感激しました。
薬師寺さんといえば、“かたよらない心、とらわれない心、こだわらない心” を表した「般若心経」のお写経が有名です。
自分の頑なな思いに囚われず、柔軟にさまざまな考え方に触れ、じっくり内側で温めながら、のびのびと自分の根っこを深めていきたいなと思いました。
そうだ、近々お写経に行こう・・・。
ありがとうございました。