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●レポーター:奈良市在住 かなゴン さん
今日、私がこの授業に参加したのは、「日本文化と呼ばれるものが好きだから」「高校時代に茶道部に入っていたから」「たまたま入ったカフェ(茶論)で食べたお菓子が樫舎さんのだったから」ただ、それだけの、ちょっとした理由だった。
でも今日、お話を聞いて、そんな軽い気持ちで和菓子を見ていたらダメだと知った。
こう言って和菓子に接するハードルを上げたいのではない。
和菓子は「文化を守るために闘っている人々の想いが重なった産物だ」ということを、これまでにも、もっともっと感じるべきだったと、個人的に反省したのだ。
喜多さんは大変ウィットに富んだ方で、ご自身のことを「歩く非常識」と仰るまでだ。
お話ししてくださる内容は終始非常に面白く、スラスラと頭に入ってくる。
のだが、知識と経験不足の私には情報量が多かった。
多すぎた。
その分、興味をそそる話題にたくさん出会えたし、置いていかれないように集中し考えながら参加できたので良かったのだけれど、情けないことに頭の中は、やや飽和状態。
しかし、この濃密な時間の中で、この2つは絶対胸に刻んで覚えておこうと思ったお話があるので、少しここに残す。
1つは、「作者」と「職人」の違い。
もう1つは、和菓子は素材そのものと道具が、作っているということ。
本当の職人は「作者」と呼ばれることをとても嫌がる。
両者は全く違うのである。
「作者」にとっては値段が高い方が嬉しいが、「職人」にとって値段が高くなるのは恥になる。
値段とは、出来上がった個数で自分の日当を割った分と、材料費である。
1つ1つの値段が高くなるということは、自分の手が遅いことの証明になってしまう。
だから、恥になるのだ。
私はこのお話を聞いて、なんとカッコイイのだろうと感動した。
ストイックに自分の技を極め続ける姿勢が本当に眩しく思う。
2つ目、和菓子について。
喜多さんは講義中何度も「味は畑が作る」と仰っていた。
唯一加える〝調味料〟砂糖も味のためでなく、保存料として使うのだ、と。
素材の味そのままが和菓子の味を決める。
畑が、農家が、味を決める。
人の手を加えると、味を汚してしまうことになる。
手を加える程にどんどん不味くなる。
いかに触らずに仕上げるかが肝要だ。
そのための道具なのだ。
そして、その道具だって職人が作る。
実力があるからこそ、今も生き残っている。
元々作っていたものが違おうが、その技術を活かして今を生きている。
和菓子を作るということは、農家の作ったものと職人が作った道具を合わせることだ。
ん~、難しい。
ここまで、授業内容のほんの、ほ~んの一部を、私の解釈でまとめてみたものの、一介の学生である私などが改めて言葉にしたところで、重みが全くない。
喜多さんの口から出てくる「ことば」には、どれも重みがあり、情熱があり、使命感があった。
和菓子屋が寿司屋と違って、世界でまだ闘えないことを問題視されていたことも、印象的だった。
ボストンへ仕事に行かれた時のこと、その時出会った寿司職人の方は手ぶらで日本を発った。
一方で喜多さんは東京からでないと飛行機に乗れないほど、荷物が沢山であった。
何故手ぶらなのか聞けば、寿司職人は現地の市場で魚を調達するからと言った。
喜多さんは、そんなの日本から持っていかなければ美味しくないだろうと思っていた。
が、現地で食べさせてもらうと大変美味であった。
ここに、和菓子屋との違いがある。
まだ世間の認知的に、「和菓子は、守られてきた伝統が、凄い」とされている。
しかし、実際は違う。
浄水機能が万全でなかった時代から、冷蔵庫がなかった時代から、和菓子は存在するが、今、現代で作られている和菓子は、当たり前に綺麗な水を使い、当たり前に冷蔵庫で冷やされ、なんなら他にも制作過程に機械を多く導入した上で、成り立っている。
世間の言う〝伝統〟とは何なのか。
和菓子職人は、その時々の素材をそのままに、合わせているだけなのに。
本当に凄いのは、美味しい食べ物を作り続けてくれている農家であり、素晴らしい道具を作り続けてくれている道具職人なのに。
そのことを訴え続けるために、和菓子職人を続けていると語る喜多さん。
たった2時間、されど2時間。
大変濃い有意義な時間と美味しさとを、たった1,100円で得られた今日の、この幸せを噛み締めて、私は今後も樫舎のファンであり続ける。